光雲寺は南北朝時代初期の貞和2年(1346)に、出家して越智伊与入道宗林と称した邦澄が、自家の菩提所として禅宗の一寺院を建立して、興雲寺と称したのが始めである。
その後1世紀をへて、室町初期の文安3年(1446)京都大徳寺の義天玄紹が来て復興開基した。以後、越智氏の菩提寺として栄えたが、天正11年(1583)越智氏没落後は浄土宗の寺院として余命を保っていた。天和年中黄檗宗祖隠元禅師の法孫に当る京都西山浄住寺の鉄牛和尚の再興するところとなり、黄檗宗となって興雲寺の“興”の字を“光” に改め、その後は法灯連綿、第二代如拙和尚の貞享年中、その境内地北面の山麗に存した越智氏の石碑八基を改葬した。
光雲寺の建築は元禄11年(1698) に天湫和尚に帰依した今井町細井戸多衛門(現橿原市醍醐町平井氏祖) の志によって、本堂、庫裡が建立され、五代目の覚林和尚は山門と両壁を造立し、ほぽ現今の環境がつくられた。
かつて越智氏によって築造せられた高取城は、寛永17年(1640)植村家政が二万五千石をもって入部して以来、代々相ついで明治維新に至ったが、支配地の縁故により光雲寺を帰依所とするに至り、高取藩士二十余氏の墓地ともなっている。
我国の禅宗には、臨済宗、曹洞宗、黄檗宗の三宗派があり、当寺院はその中の黄檗宗で、京都の宇治五ヶ庄にある大本山萬福寺の末寺である。
宗祖は中国から渡来された隠元禅師で、その教義は、参禅を以て仏心を究明し、唯心の浄土、己身の弥陀を体得することにあり、又禅教一如の妙諦によって転迷開悟し、安心立命を期するのである。